元禄3年(1690)に湊が開設され、中継ぎの湊であった。上久保問屋(幸屋八右衛門経営)、中久保(河原屋兵蔵)、下久保(糸屋好右衛門) があり、米鉄紙問屋、米炭酒などの瓦屋根の蔵が建っていた。

三田船の盛衰

福島時代(1601~1619)は、深川から奥の三田村まで通船しようと試みたが、多額の費用に断念。広島~下深川間は就航していた。

その後、狩留家、柳瀬と登り、寛永12年(1635)に宮原の源高浜、寛永14年には栗原河角浜、外原は新屋浜まで登る。瀬戸蔵・栗原蔵の米は河角浜から広島へ送った 寛永15年(1638) 柳原の善入寺浜ができると河原屋が津出米を扱った。一年後には長田村まで舟路が出来たが、村が舟による運搬に反対したため、奥からは50年間人馬での運搬となった。

ここ久保浜には三篠川の上流から年貢米の他に特産物や鉄鉱石などが集められていたので米蔵、炭蔵、鉄蔵など蔵がたくさんあった。

米蔵の棟石

久保浜湊米問屋(元屋)の棟石に使われていた。
三田小学校の前、集会所の入口に移設

最寄り駅 上三田