舟を通さなかった轟の瀬
芸藩通史に
「此川 石多く 水激しく鳴る 故に名づく 景地なり 夏月に蛍火多し」
とある。
あまりに難所のため舟が通らず、寛永16年に、川筋にあたらしい川を造った。
三篠川は、昔は三田川と言っていました。三篠川の舟運は、広島へ、物資を運ぶため、江戸時代の寛永年間に開発された。
轟の瀬 舟をつないだ岩
轟の近くに上久保問屋があった。家の裏は川で、大きな岩には舟をつないだ穴(○印) が残っている。ここに舟をつないで、蔵に荷物を出し入れし、栄えた幸屋があった。
轟の岩に彫られた広告
「みちは左 反ものは すさわの 永井」と岩に彫られている。
彼岸花と芸備線列車(レールバス)
「轟の瀬」 舟運の難所