線路は続くよ どこまでも線路は続くよ どこまでも
三田新城跡(岡地区)より三次方面を望む

三田の地名由来

昔から三田村と呼んでいます。何の言い伝えもないのですが、承平年間(930年代)の和名類聚鈔に高田郡三田の庄があり美多とも呼ばれていたと書いてあります。
まさに、その三田という名が当村に残っております。

上の写真は、永井弥六氏が本家の国郡志御用付下調書出帳昭和5年に筆写したものです。
大化の改新(西暦645)以前の我が国においては、皇室直轄領としてのミヤケが各地に設置。ミヤケが、御田、ミタとも表記されたことから三田周辺にもミヤケが設置されていたのでは、と古くから考えられている。

広島市安佐北区白木町一帯は、平安の昔から中世にかけて高田郡三田郷(たかたごうりみたごう)と呼ばれていた。郷は行政単位の一つだが、時代により、性格を異にする。

室町時代末期、広島湾頭への南下をもくろむ吉田郡山の毛利軍の前線基地として、三田は重要視され、萩原城、古川城を築いて割拠した三田一族共々繁栄した。「高田郡三田村」は合併のため、昭和31年(1956)9月30日を以て消滅したが、古き因縁のある「三田」の名は数多く残る。芸備線駅の「中三田」、「上三田」等々。

旧三田村(三田三里)の地形

中郡道は、三田村を通るのにほかに比べ歩けども、歩けども抜け出せないという事から三田三里とも呼ばれていました。
旧秋山村と旧三田村との村境は、「十郎右衛門川」という谷川である。

狩留家境と十郎右衛門川までの距離は、二里一二町。二里半に足りないが、それを「三田三里」というのは、他村内の往還道が短いのに比較して、三田往還道が長く感じられたので誇張表現したのであろう。

旧三田村は、東西に高い山脈が連なり、中央を一筋の三篠川が貫流する山峡の村で、耕地は川に沿って、僅かに細長く広がっているに過ぎない。